コラム
GIFTという考え方
2018/03/05
「GIFT」という言葉の意味は、贈り物という意味のほか、”天性の才能、特別な才能”といった意味がある。
才能は神様から与えられたものであり、その才能を社会に還元するのは才能を持つものの責務であると考える人がいる。
その考え方に賛同したい。
私は、エンジェル投資家、及びキャリアカウンセラーという仕事をしている中で、日々多くの方にお会いする機会をいただく。
将来の進路を考える際に、自分が他人からどう高く評価されるか、を気にして、ポジションや年収という話にばかり着目される方にお会いすることがある。それは、特に、中高年の男性に多い傾向にある。
住宅ローンの返済、子供の教育費、妻からのプレッシャー、など、自分の存在価値のよりどころが報酬になってしまいがちなのはわかる。
しかし、自分の価値って、いくら貰ったか、よりも、どれだけの人に有難うと言われる仕事をしたのか、という方が良いのではないだろうか。
人生100年時代と言われる。例えば、50代の方にとっても、まだ20年くらいは働くことができる健康もあるだろうし、何よりも社会がそれを要請している。
年功序列という時代が終わったのを想定外の悲劇と言うこともできる。一方で、人生最後の仕事として、どういう仕事をしたいか、を問うことができる時代になったと言っても良い。
日本は労働力不足に苦しんでいる。
言い換えれば、仕事は五万とある。
職に就くという視点でポジションを探すのではなく、社会で困っている人に対して自分ができることはないかという視点で見渡すとできることは沢山あるはずだ。
中高年の方が今後のキャリアでやりたいことに、若手の育成、といったものがある。
正直、この言葉はダメだ。
若者は自分を育成して欲しいと願ってはいない。むしろ、将来を一緒に作る活動を手伝って欲しいと思っている。
若者ができないことを手伝う、夢を叶える手伝いをする、というスタンスは大切だ。
若者のコミュニケーションはデジタルで二元的。中高年はアナログで曖昧さを許容できる。対人関係におけるコミュニケーションは、中高年の人の方が遊びを持てる分、円滑に進めることができるはず。だが、その“遊び”を見失い、そして人を助けるという視点を失うと、若者に強要するコミュニケーションを取ってしまう。それは、対若者だけではなく、対女性、対外国人などにも当てはまるだろう。
コミュニケーションにおいて、遊びを持てる、人間関係を基調とする、というGIFTの使い方がまだわからないのかもしれない。
労働不足が深刻化する中で、若者と中高年が対立や支配という構造に捕らわれず、お互いのGIFTをしっかりと活用し、協創するスタンスが取れないだろうか。